随想録

Takuya

23 September 2024

今朝は少し肌寒くかった。おもわず布団を重ねていた。このところ、悪夢というかグロテスクな夢を見ることが多くなった。来週から生活環境がガラッと変わるのでそれにたいする、期待感や不安が無意識に反映されているのだろう。大事なのは、過度に新しい環境に期待しないことだと思う。これまでの人生で、何度も自分の求めていたこととのギャップに苛まれてきたことから、このことことを教訓としておきたい。ただし、今までのような支配される—たとえば学校や会社という空間での関係性—とはまったく違うものである。だからわずかながらの希望や楽しみをもって生きていける。そんな気がする。私はキリスト者ではないが、次の有名な一句からは強い影響を受けた。

Αἰτεῖτε, καὶ δοθήσεται ὑμῖν· ζητεῖτε, καὶ εὑρήσετε· κρούετε, καὶ ἀνοιγήσεται ὑμῖν. マタイ7:7

現代社会に「適合」するためには、つい目先の知識にばかり眼がいってしまいがちだ。巷の書店でも「教養としての」だとか「年収アップ」だとかそういった類の言葉がつづられた背表紙を良くみることが多い。現在の教育システムも会社に就職するというひとつの社会装置としての役割になってしまっていることは憂慮するべきことではないだろうか。本当のいみでの啓蒙を実現するには—それがたとえ、役に立たないように思えても—ひとりでじっくり考えるじかんというものが必要になるのだと感じている。来月から一度、「世間」から離れることになる。それゆえに自分のことを責めようとする気持ちも多少はあったが、今は「じっくり考える時間が与えられたのだから、得した気分だ」という気持ちのほうが強くなっている。古代ギリシャでは、心が平穏である状態のことは Ἀταραξία と呼ばれていた。禅宗やエピクロスをはじめとする快楽主義者が得たような心の平穏を保てる日々を送りたいと思っている。

環境が変わったらまずやりたいことは、畑を耕すということだ。そして、蝋燭や暖色のLEDの光でラテン語やギリシャ語を学び、古典籍を読む。そうやって人間の本性(Nature)に近づいていくことで、善く生きることを実践したい。スピノザの主著である『エチカ』も私の生き方に大きな影響を与えた。彼はconatusという言葉をしばし使っていたが、これはラテン語で、努力するとか傾くといった意味である。これは一種の、「幸福に対するパラメター」である。喜びによって増加し、苦痛によって減少するというものである。幸福に生きるためにはこのconatusを追及することであるというのが、彼の考え方だと解される。一見当たり前のようにみえる考え方だが、私はついつい苦痛のほうだけに眼をやってしまってしまうきらいがある。今身の回りで起きていることを否定的にみる視点も大事だが、それを苦痛としてはいけない。そこからいかに喜びを発見できるかということが、生きる上で大事なことのように思う。

back