ウーン

TAKUYA

23 June 2024

ひさしぶりに日本語で日記をつけてみる。このところまた、心の中が燻ってきているように感じる。そのせいかBlenderの創作活動が妙に捗っているように感じる。創作活動の私の存在についてには今まで色々と書いてきたが、まだ自分が何を考えていて、どこに向かいたいのかがハッキリしない。創作活動以外に自分を支えるものは、社会参加(アンガジュマン)であると感じている。サルトルは、第二次世界大戦後の実存主義のテーマとしてこれをあつかってきたと理解している。今日は体が重く感じた。ボランティアを欠席と午前中考えていた。一度この行動原理を反芻することで再び動く活力を見出した。この一節を書いたら出かける準備をしよう。午前中はチャットをして過ごしていた。色々調べものをしながらだったから時間があっという間にすぎた。うーん午後はボランティアに出たあとは何かおいしいものでも食べようかな。エンゲル係数どころじゃなくて最近物欲がひどくなってしまっているから。Packing Partyをやって目の前の散らかり具合に蓋をしようとおもう。このところ読書をする時間が少なくなってきている。まだまだ読まないといけない本がたくさんあるし、秋口には資格試験を控えているのだからいい加減先延ばしにするのはやめないといけない。でも、Godotのコンテストが今日から始まるみたいだから、何かしら作品をこしらえたいという心の中の欲求がある。どれを優先させるべきだろうか。自分のやりたかったことを成就させるために、どう時間を使うか。これを大切にしなければ、また不幸な毎日が襲ってくることはいうまでもないだろう。今日は意識の流れの手法をつかって、自分の心の中で起きていることをとらえる試みをやっている。一節を長くしてるのは、意図的なものである。この手法を使った作家で有名な人は、ジェイムズジョイスやバージニアウルフ、川端康成などである。ジョイスのユリシーズの最終章は有名なので一読をおすすめしたい。また横光利一の「機械」という小説も有名だそうだ。一説が長く、大量の文字でページが埋め尽くされる。こういった文章の中では、文の意味のまとまりの囁きを聞くことが有効な読書法のようにおもえる。ポイントとしては話題をあえてコロコロ換えることで、脈絡をバラバラにして文章から見える像をカラフルに彩るということである。書き方の常識に反することで、芸術性を生み出すというものだ。脱構築の一種だともいえるだろう。

なんだか自分の生活がばかばかしく思えるようになってきた。ただひたすらに快楽を回避する生活を続けてきたが、そんな生活を続けて心を壊してしまってどうするんだ。もう少し快楽に寛容であるべきなのではないのか、そのように思うようになってきた。たた快楽は賢く使うべきであるということは忘れてはならないだろう。私が言っているのは、エピクロスの快楽主義(ἡδονισμός)のことである。快楽の行使と目されるもの—大きな家を買うとか、車を買うとかそういったものが典型的だが—こういったものは時がたつほど、不安の種になりがちである。それは家ではれば雨漏りや壁の補修など、車だとあほみたいな税金を払ったり、燃料の高低に翻弄されたり、人を傷つけるリスクを負うことになるなどだろう。そうではなく、やってて純粋にうれしいと感じるものに財を投げうったり、ボランティアをすることにこそ真のヘドニソモスが得られると考えたほうがいいだろうということである。したがってキャッシュフローが増えたから自分の生活水準をあげるというよりは、その分をヘドニモンの補充にあてがったほうが幸福につながりやすいと今は考えている。だから応援したいと思える人たちにはとことん応援するようにしようと考えているのだ。このあたらの哲学的な省察は日々の過程の中でさらに磨いていこうと考えている。

TOP