背任

Takuya

ジュリアキャメロンの本の中の契約書を書いてから、はや二週間ほどが経過しているが、モーニングページとこのブログの更新がおろそかになってしまっていた。

仕事で手がいっぱいで手が回らないという定型句的な言い訳をするのはたやすい。しかし、よく考える必要がある。そもそも何のために自分はまた働いているのかということを。この目的意識がなければ、ただ自分は税金を納めるための機械とだけになってしまう。

それは、管理者の視点からいえばとても都合のいい人間に映るだろう。次の健康診断でX線写真のどこかに翳りができるかもしれない。そうなたら厭でも自分の生き方に向きあう必要がでてくる。しかし、それからでは遅いと思うのだ。

たとえば一向宗(浄土真宗)は、なくなった人を弔うためにあるわけではない。ただ社会のくだらない慣習に合わせて、そのようなカモフラージュがなされているだけなのである。いかに自分自身が他力(弥陀)によって救われるかを一心に考える教えだということを忘れがちである。

わたしはよく、予定説的な「社会人」像を学校や、親族、職場、書籍などで刷り込まれてきたが、これらは東洋人的なアイデンティティを捨象してしまっているようにしか思えない。恐ろしいのは、理想的な人物像を国家が作り出すというものだ。皆口をそろえて「世間体が」とか、主体を肥大化させることによって権威を保とうとする。

なるほど、それだと個人の考えをあいまいにすることができる。個人的な意見を衝突させることなしに物事をやりすごすことができるから楽なものだ。しかしそうやって、放し飼いをしたリヴァイアサンが暴走することで、混沌の深遠へといきついてしまったのではないか。その結果が先の太平洋戦争だったのではないか。どうも同じ轍を踏もうとしているようだ。

そうなったときでも、自分自身をこの世界につなぎとめる方法は何があるだろうか。私は芸術をこそが、その道標たるべしと考えている。この考えはショーペンハウエルの主著「意思と表象としての世界」を継承するものだと思う。

これまでは、労働の結果得た貨幣を盲目的に蓄積することだけを考えて生きてきたが、そろそろ使い方をについて学ばないといけない。それは、Nisaなどのテクニック的なものではない。自分自身をこの世につなぎとめるモノを明らかにするための表現の発見として、使ってみることを始めるのだ。